棄てるものがない世界
雑感
唐の杜甫に「聖朝無棄物」という詩があります。
その国の主がよく国を治めて万民がそれぞれに自分の業に
励み楽しんでいる天下泰平の様子をあらわしています。
余計な者は一人としておらず皆が生き生きとして
まさに棄てるものがない世界です。
それを思うと今の日本はどうでしょうか?
少し悲しくなります。しかし悲観的にばかりなっていても
仕方がありません。私たちはこの言葉を禅的にとらえて
自分自身に活かしていかなければいけません。
落語にこんにゃく問答というのがあります。
修行熱心な雲水が和尚に扮したこんにゃく屋とのでたらめなやりとりを
勘違いして意味を取り違えてしまうというお話です。
たとえ勘違いであっても自分にとって意味あるように
活かせることができた雲水さんは幸せものだったに違いありません。
私が修行道場にいた時のお話です。
一時、縁あってある方の介護をさせていただいたことがありました。
修行中だからといって何ら特別のものではありません。
皆さんが想像されるようなの介護です。
社会問題にもなっておりますが介護の大変さというのは
果てしがないことにあるように思います。
一日三度の食事をはじめ毎日毎日同じことの繰り返しです。
雲水修行じたい今まで経験したことのないようなことの連続です。
これに加えての介護介護の毎日に私は精根尽きはててしまいました。
すっかりまいってしまってついには「こんなことが本当に修行に
なるのだろうか」と文句さえ口にするようになっていました。
そんな時私の心を誡めてくれたのは以下のような老師のお言葉でした。
「禅の修行というのは坐禅だけを言うのではない。
日常すべてが禅の修行だ。ましてや君は人を救おうと願心をおこしたからこそ
仏門に入ったのではないか。人なくして仏教などあるわけがない」
今回のテーマは「聖朝無棄物」です。
自分の心さえ調っておればどんなことでも修行になるのです。
この世には棄てるものは何もないのです。
いかにして意味をもたせていくのかが大切なのです。
チャンスはチャンスであるのは当然です。
ピンチさえもチャンスにかえていきましょう。
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[…] こぺるさんの発酵記録2021-05-09 08:07:34せいちょうむきぶつ-聖朝無棄物https://… […]