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みずをきくすればつきてにあり-掬水月在-

禅のことば

おしょう
おしょう
湛さん、最近 達さんからいろいろと学んでるようじゃの
いい心がけじゃ それではわしからも少し
こんな禅語はどうじゃろうか
おしょう
おしょう
水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ 
おしょう
おしょう
この句は唐の詩人干良史(うりょうし)作の『春山夜月』の詩が元じゃが春の夜の優雅さを詠じとる。まず最初の句を説明しよう。
「水を掬す」とは、水をすくうことを言う。ある時、水鉢の水を両手で掬うと、両手の掌の中に鮮やかに月が映っていた。あんなに遠いと思っていた月は実は自分の中にあったと気づいたんじゃ。つまり仏性というのは私たち誰しももっているもので特別なものじゃない。
白隠さんの衆生本来仏なり じゃ
おしょう
おしょう
次に「花を弄す」とは、花と戯れること。道に咲く花に見とれて戯れていると、その香りが衣に移る。
花を弄すればというのは仏法の教えに触れているとその教えが自身の中にも芽生えてくるということ。朱に交わればなんとかというやつだな。
おしょう
おしょう
その点、お寺にはいろいろな人が来る。その中で生活しているということはいろんな素敵な花に普段から触れているということ。本当に毎日感謝しかないわい、のぉ湛さんや
あ!はい
湛ソ
湛ソ
おしょう
おしょう
聞いてなかったんかーーーーい

出典と解説

この語句の出典は中国は唐の于良史(うりょうし)の五言律詩『春山夜月』です。

春山多勝事 はるのやまはまさることおおし
賞翫夜忘歸 しょうがんしてよるかえることをわする
掬水月在手 みずをむすべばつきてにあり
弄花香滿衣 はなをもてあそべばかおりころもにみつ
興來無遠近 きょうきたればえんきんなし
欲去惜芳菲 さらんとほっしてほうひをおしむ
南望鳴鐘處 みなみのかたかねのなるところをのぞめば
樓臺深翠微 ろうだいすいびにふかし

月や花 は自分の他にあるものとして客観的な存在です。しかし無心三昧の境地になるとそれは客観を超え主観へと転ずる。むしろ主客の差はそこにはなく不二一如。月は自身であり花は自身となる。

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