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般若心経を考える(佐々木閑先生の100分de名著から)

アウトプット 紹介

般若心経いろいろ

一番メジャーなよく聞くお経は何ですか?と問われると「般若心経」と皆さん思われると思います。禅宗でも般若心経は読みます。実際には大悲呪の方が読む頻度としては多いのですがお経のイメージというとやはり般若心経ではないでしょうか。

しかしながら般若心経の実際のところはよくわからない、という人が多いのも事実です。

「んー 空(くう)について書かれているんですよね?」
湛ソ
湛ソ

というところまでは分かっているがなにか分かったようなわからないような感じです。
私自身、うまく説明できないので実に様々な般若心経についての本を読んできました。今回、佐々木閑先生の「般若心経」100分de名著 を読んで今までの疑問が解消、スッキリと腑に落ちるところがありましたのでこちらにまとめてみました。

スタイル

お経とは

 

お経は基本的に、お釈迦様のお言葉を記したものです。これは釈尊の死後、残された弟子たちが自分たちの記憶をもとに口伝で伝えてきたものを字を記し、お経という形で残しました。

 

般若心経はその中でも少し変わっています。こちらの登場人物はもちろんお釈迦さまもおられるのですが、主役ではありません。主役は観自在菩薩です。菩薩とは悟りを開いたブッダとは違います。佐々木先生も書かれていますがブッダ候補生です。

観自在菩薩は釈尊の弟子である舎利子に 教えを説きます。その様子を袖でお釈迦様がみている形です。

観自在菩薩 行 深般若波羅蜜多 時(観自在菩薩が 深遠なる智慧を 行じながら観察なさった)

波羅蜜多とは彼岸、つまり悟りに至るための修行の徳目のことです。六波羅蜜と言います。
※六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)これを行じながらとあります。

ここから観自在菩薩の観察した 世界観、宗教観、般若心経のエッセンスが説かれるのです。

序分と流通分

般若心経を中国に持ち帰り翻訳をしたのが有名な現状三蔵法師です。般若心経には長いバージョン短いバージョンがあります。長いものには序文、正宗分、流通分があります。(一般的に私たちが詠んでいるのは正宗分)この序文、流通分(いわゆる〆ですね)を見るとより明確にわかります。

序分 ある時釈迦は王舎城という町の霊鷲山という山で、多くの弟子や菩薩たちとともにいて、一人深い禅定に入っておられました。その折、舎利子がその場の集まりの中にいた観音様に「般若波羅蜜多を修行するにはどうしたらよいのですか」と尋ねました。すると観音様は次のように言いました。

と本文に繋がります。そして

流通分 それまで瞑想に入っていた釈迦は、その状態から出ると、観音菩薩が述べたことに対して「その通り、素晴らし」と称賛しました。すると、その場に集まっていた大勢の聴衆はみな歓喜して、その言葉を承りました。

↓こんな感じですね

達ソ
達ソ
(観音さんと思ってね)
えーだから 般若の智慧とはですね
かくかくしかじか でありましてーー
(舎利子です)うんうん(聞いています)
湛ソ
湛ソ
おしょう
おしょう
(僭越ながらお釈迦様させて頂いております)

イグザクトリー!エクセレント!!!!!!!!

釈尊の説いた仏教とその後に出来た大乗仏教

仏教の多様性

実は今私たちが言う仏教というものは多種多様です。厳密に言うと釈尊が説いた原始仏教と私たち日本人が考えている仏教はかなり違います。ただそれはどちらが正しくてどちらかが間違いでということではありません。仏教の変遷の歴史は人の願いや思いの積み重ねでもあります。そしてそれを全部ひっくるめたものが仏教です。

釈尊は一神教の唯一神とは違います。世界の真理を悟った人です。

よく宗教の中では原理主義者が元々の教えと違うと闘争が起きることがあります。しかしながら仏教は世界の真理を説いたのであって釈尊を絶対化するものではありません。釈尊自身も協調ということをなによりも大切にしました。

そのこともあり今あるような多様性をもつ宗教に仏教はなったと考えられます。

釈尊の仏教

釈尊の仏教は、私たちにある四苦(生老病死)からどう逃れるのか、自分の心の苦しみを自分の力によって救済するというものです。これを自利といいますが、これによる俗世間との別れ、出家があります。まず自利があります、布教活動が積極的にあるものではありません。

その姿を信者たちが見て、私もそのようにありたいと 集まってきます。仏教は人を拒みません。全てを受け入れます。その為、自然とこれが利他に繋がっているのです。

佐々木先生はこれを「こころの病院」と呼んでいます。病院は私たちが行くものであってあちらから来ることはありません。

大乗仏教

 

大乗とは大きく乗る。つまり自身だけでなく他の多くの人も救うという意味です。釈尊の仏教は非常に合理的です。明確に苦しみというものをとらえそしてその原因に言及しています。そしてその原因を取り除く方法までも説いています。しかしながらなかなかここまでの生活はすべての人には難しく、ハードルが高いものです。大乗仏教の人たちは教義の間口を広げ、在家、出家を問わずどんな人でも簡単にブッダを目指すことの出来る道を様々に考案していきました。

般若心経のエッセンス 色即是空

さて歴史的経緯を少し勉強したところで、般若心経についてお話を進めてまいります。

今までの流れで釈尊の仏教と大乗仏教は根本が違うというお話でした、そして般若心経は大乗仏教の考え方が色濃く反映をされたお経です。そのエッセンスのひとつに「色即是空」があります。

空→つまり実体がない というのが般若心経のエッセンスです。本文ではずっとこれも 空 あれも 空 と説いていきます。それでは何が実体がないと いっているのでしょうか?

お釈迦さんの否定?

冒頭見てみましょう

照見五蘊皆空(しょうけんごおんかいくう) 五蘊を空 と見た時
度一切苦厄どいっさいくやく (どいっさいくやく) 一切の苦厄から救われた とあります。

あれ?

そう仏教に詳しいひとは分かったと思います。五蘊は釈尊が説いた仏教の大事な教えであり真理です。それが空 実体がないと言っています、つまり否定しているのです。ここからずっと釈尊が説いた教え が空だと続きます。

ここから本文については、釈尊の元の教えが鍵になってきますので
釈尊の説いた教えから学びなおし、そしてそこから般若心経のアプローチを見ていきます。

釈尊の教えから考える般若心経

五蘊(ごうん)はない?!

釈尊はわたしたちがどのようなものから出来ていて、どのようなありかたをしているのかを分析しました。これを5つの要素に分けました。

  • 色(しき) われわれを構成している外側の要素、つまり肉体のこと
  • 受(じゅ)外界からの刺激を感じ取る感受の動き
  • 想(そう)いろいろな考えをあれやこれやと組み上げたり壊したりする構想の動き
  • 行(ぎょう)何かを行なおうと考える意思の動き
  • 識(しき)あらゆる心的作用のベースとなる認識のことです

最初の色が肉体 そして 後の四つが 心として この5つの集合体が人であるという考え方です。

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

不異 とは異ならない です。色つまり物質要素は 実体がないということと 異ならないし
実体がないといことも 物質要素 とは異ならない

物質要素 ってのが 実体がないってことだし
実体がないってのが 物質要素でもある そしてそれは受、想、行、識においてもそう。
だから五蘊 には実体がないってこと。

え!めっちゃ否定してますやん! まだまだ続きます。

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減  是故空中

法というのは この世界の在り方のことです。釈尊の中ではとても重要な考え方です。釈尊は諸行無常と言いました。これはすべてのものは常住ではなくうつろいゆくということです。

しかしそれも 空 実体がないので、うつろいゆくなんてことはそもそもなく。
生まれたり滅したりもなく、キレイ、汚いもない、増えもしないし、減りもしない。そう思ってるのは錯覚、錯覚。て言っています。

空の発明

それぞれの空

そんな実体はない!錯覚だ! 空の発明は般若心経の一番のポイントです。
では釈尊の時代に空の概念はなかったのでしょうか?

否! しかしながら釈尊の空は大乗仏教のそれとは違います。釈尊はこう言っています

私がここに自分というものがある という思いを取り除き、この世は空であると見よ。
※スッタニパータ

これは確固とした絶対の対象物が実在することはないという意味です。これらは実体のない虚像であり、あるのは認識器官、認識対象、そして心と心の作用があるのみと言っています。

釈尊は論理的に独自の方法で全世界を分類しこのことを発見しました。それを
五蘊、十二処、十八界といいます。

五蘊、十二処、十八界

五蘊は先ほど説明しました。

人の身体には、外界を認識する為の器官が5つあります。そしてそれらの感覚器官に認識される対象世界も同じように5つあります。この身体の認識意外に心によって認識を行います。この心による認識にも同じように対象があります。以下まとめています。

  • 眼→色(げん→しき)
  • 耳→声(に→しょう)
  • 鼻→香(び→こう)
  • 舌→味(ぜつ→み)
  • 身→触(しん→しょく)
  • 意→法(い→ほう)

げんにびぜっしんい の六根 と しきしょうこうみしょくほう の六境。

六根、これらの6つの器官により 六境とよばれる対象 を認識します。そしてここから 意 を介して意識が生まれます。これらを 六識 といい下記のものとなります。

  • 眼識
  • 耳識
  • 鼻識
  • 舌識
  • 身識
  • 意識

六根と六境で 十二処。そしてこれに六識を 足して 十八界といいます。

対象というものは絶対的に実在するものではなくて、これらの認識によって存在すると言えます。釈尊の空とは 絶対的に実在すると思っているのは 自身の認識がつくりだしたものだよ ということです。世界の認識の分類は 五蘊、十二処、十八界のみで おれがいる!ってのは思い込みでそれは空ですよ と言っています。

そしてこれを 般若心経では 実体がない、空だと言っているのです。

是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界

釈迦の主張、般若心経の主張

 

釈尊は「諸行無常」「諸法無我」。私を含んだ物質要素というものは安定的でないし、それを形成している基本要素の集合体でしかないと考えます。そして常に変化し続けている。それが空。あるのは最小単位の基本要素と法則性のみ。ということを主張します。

に対して

般若心経では釈尊のその解釈は低いレベルの解釈であって、それらのことさえも実体をもってないと主張しています。

十二縁起、四諦もない

続いて十二縁起、四諦も 実体がないと言います。これら二つは釈尊の説いた真理です。

十二縁起

十二縁起は人の心の苦しみがおこるメカニズムを説明しています。苦しみの根本の原因は「無明」つまり先に説明したような真理に気づいていないからです。無明からはじまり老死という最大の苦悩に至ります。

  1. 無明
  2. 名色
  3. 六処
  4. 老死

無明を滅することが以下につながる苦悩も滅することになります。

四諦と八正道

四諦とは四つの諦め、真理のことです。

  • 苦諦 この世は苦である
  • 集諦 苦の原因は煩悩である
  • 滅諦 煩悩を消滅すれば苦は消える
  • 道諦 煩悩を消滅を実現するためには 八つの道 がある

八正道(道諦の為の八つの道)

  1. 正見 正しいものの見方
  2. 正思惟 正しい考え方をもつ
  3. 正語 正しい言葉を語る
  4. 正業 正しい行いをする
  5. 正命 正しい生活を送る
  6. 正精進 正しい努力をする
  7. 正念 正しい自覚をもつ
  8. 正定 正しい瞑想をする

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

十二縁起、四諦ですら 実体がない。空であると言います。

深遠なる世界へ、なぜゆえの否定なのか?

因果則

釈尊が発見した仏教はインドで生まれました。その時のインドでは輪廻という考え方が一般的でした。因果応報という言葉がありますが、これは「輪廻」や「業」という考えがベースになっています。業というのは 正しい行いにしろ悪い行いにしろ発生します。この業の力によって私たちは次の来世を楽なところ、嫌なところに引っ張っていかれるのです。(※六道輪廻)

  • 阿修羅
  • 畜生
  • 餓鬼
  • 地獄

仏教の一番の目的はブッダとなり、業を滅してこの因果則から逃れ輪廻をストップさせ涅槃に入ることです。ここで興味深いのは業はわるいことだけではないという点です。

let it be 自我をすてて

悪いことをしないのは当然ながら、善いことをするのにも注意が必要です。そこに「善いことをしてやろう」「こんな善いことをしてやったぞ」という自我が入るといけません。それは業につながります。

釈尊が考えた「善いこと」とは自我意識の鎧を捨てた姿での善行なのです。勢い込むことなく平常心で生活をすることなのです。釈尊の仏教徒は科学的に世界を分析しその中で自分自身を変えていく、そのような仏教でした。

ゲームチェンジ!大発明 利他と廻向

利他については先に書きましたが、般若心経おいては利他は純粋に他人への善行を推奨しました。つまり般若心経ではこのことが輪廻につかわれるのではなく、涅槃につながる力へ変換可能としたのです。釈尊の考えをひっくりかえす、ゲームチェンジが行われたのです。

これを可能にしたのが 般若心経の 空でした。このお経によって因果則の世界がリセットされる理由はここにあったのです。

私たちの善行は積み上げることが可能になり、それが自身の為に変換可能になりました。

最高の悟り 無が教えてくれるやさしさ

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃  三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

最後の部分です。般若心経の素晴らしさを説いて賞賛がされています。心の妨げもなくなり恐怖することがない。般若心経を行ずることによって正しい悟りを完全に悟ることが出来ると言っています。

呪文 般若心経の効能

以上、佐々木閑先生の「般若心経」から私なりの解説をさせていただきました。一番肝要なところは最後の 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 です。この呪文を唱えることが無心になることであり、そして善を願う心のあらわれのように思います。

訳はこうです。山田無文老師の訳になります。

救われた。救われた。完全に救われた。
みんな完全に救われた。 ここがお浄土だった。

 

 

仏教を考える

仏教は歴史的な背景もあり実に多種多様です。しかしながらそれはどれが正解であり、間違いであるとかではなく、その時々に私たちがどのような思いをもってまた願いをもってきたかを知ることのできるものでもあると思っています。ご都合主義ではいけませんが、このような寛容さも仏教が今まで続いてきた要因であるようにも思いました。

 

 

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