本気で書評を書いてみる 伊野孝行「となりの一休さん」

発酵の記録

イラストレーターの伊野さんから新しい著作「となりの一休さん」が届きました。昨年に新しく本を書きおろすと伺っていたので待ちに待っていた本でした。NHK「オトナの一休さん」の作画を担当した伊野さん、NHKからはアニメを基にした本が一冊出ていました。しかしその本は人気があったにもかかわらず増刷されず。残念に思っていたので今回の一休さんの新刊は私にとってはとても嬉しいニュースでした。

一休さんというと私たちの世代は東映アニメーションの「一休さん」を思い出す人が多いと思います。実際、お寺に拝観に来られる40代以上の方はほとんどがこのイメージを持たれています。方丈におまつりしている一休禅師の頂相を見て現実の一休禅師を知り驚かれます。

史実における実際の一休さん像というものはいまだ世間ではあまり知られていません。それに風穴を開けたのがNHKの「オトナの一休さん」でした。実際の史実をもとに描かれています。実際の一休禅師は酒を飲み、女性を抱き、髪やひげは伸ばしっぱなしという風体でまさに風狂。残されている文献というと一休禅師が記した「狂雲集」「自戒集」そして弟子たちが記した年譜のみです。これら残された資料から書かれた一休禅師の解釈本は数が少なく、これぞというものが今だありません。書かれる人が小説家なのか、僧侶なのか、学者なのかそれぞれの立場でそれぞれの解釈がわかれます。残された資料を読むととんでもない破壊坊主。具体的な行動自体は針をふりきったようなとんでもない行動ですが、その背景に何を見るか、人によって違います。私も何度あのエロ坊主やろと何度揶揄されたことか。

「大人の一休さん」という番組は奇跡です。ギリギリのラインで全てが成立しています。

番組のスタッフは伊野さんを含めかなり勉強されたことだと思います。そして何より腹をくくられた。監修に花園大学国際禅学研究所の芳澤先生が関わっておられます。伊野さんの画、板尾さんの声のおかげもあってか奇跡的な番組が出来上がったと思っています。批判的に評した人を聞いたことがありません。リアルな史実を忠実に扱いながらも尊厳は失われず、むしろ親しみさえ感じます。

しかしながら実際の一休禅師は難しい。

晩年に愛した女性、森女との生活を戒律違反の生臭坊主と見るか、はたまた愛に対して正直で純粋な人間と見るか 仏教原理主義とあいまって一休原理主義者の解釈は恐ろしく反目しあっています。

また史実の一休原理主義者の中には「一休とんち噺」からのイメージで出来上がった東映アニメの小僧さんとしての一休さんに価値を見出さない人は多いです。

数年前、東京の五島美術館で一休禅師の展覧会が行われました。その展覧会は「一休 とんち小僧の正体」でした。史実の一休さんとともに伝承として伝わってきた一休禅師のとんち噺、そして東映アニメの一休さんに至るまで一休さんというキーワードをもとに展示がされていました。

仏教にはいろいろな側面があります。

私が生まれる前から仏教は存在しています。仏教や他の宗教は、私たち人間がこの生きにくい世界を生きるために必要として生まれたものです。私たちが求めたからこそ生まれたものだと思います。自分たちが生み出したものに自分たちが縛られるということに少しジレンマを感じますが、宗教の世界は絶対です。一神教などは特にそうでしょう。初期仏教から考えても一休禅師の破戒行動はあるまじきことです。

ただ宗教の中でも仏教は一神教と比べて寛容でした。お釈迦様のおられたインドから日本に伝播する過程で様々な考えに影響を受けながら豊かに変化してきました。純粋な初期仏教と私たちの元々あった欲求や考えをすべてひっくるめて出来上がったものが日本の仏教と言えます。

著書でも書かれていますが、そんな日本の仏教をすべて受け入れてくれたのが一休禅師、一休さんでありました。そう考えると五島美術館での展覧会しかりすべての一休さん像がそれぞれの一休さん像として正解のように思えてきます。

この本で一番、私が好きなところはこの部分であります。一休禅師がいろんな趣向を盛れる類まれなる器の持ち主として史実、虚構を含めて評価されています。

私たち自身、あの時の自分はどうかしていたと自身の二面性に悩むことがあります。自分でさえわからないのに他人のことなどわかるはずもなくその時に見えた(しかも主観的に)ものに一時的にそのようなものとして付箋を貼っているにすぎません。10年後にはまた別人かもしれず。もしかしたら30分後でもまったく考え方が変わっているかもしれません。

同時代でもそうなのに時代背景も価値観も違う昔の人物のことをわかろうとするなんて虫が良すぎます。一休禅師もその危険性がわかっていたからこそ弟子に対してあのように接していたように思います。その時、その時自分は合っているのかなと疑問を抱き、眼前のことに対して全力で投じる。これしか正解はなく、これこそが禅であり、一休禅師が禅僧である所以でしょう。

一休さんの器は時代を超えて自己を投影する鏡となっているように思います。ただ一休禅師の破戒行為を自己を正当化するのに使うのだけは気を付けなければいけないと思っています。最低限のルールを守りながら人には迷惑をかけずに一休さんの器を楽しむことが出来ればいいなと思います。

かくいう私も一休原理主義者でしたが、少し思いなおす機会がありました。

最近、幼稚園の息子が東映アニメの一休さんの再放送を見ているのですが、彼は本当にこのアニメが好きらしく本当にまっすぐな瞳でじっと見ています。私も一緒に横で見ていましたが、ストーリーなど実にしっかり出来ていて改めて良いなぁと思いました。私も少し大人になったかもしれません。しかし飯島先生似てるなぁ。対談がこの本の肝です。

本の裏表紙にあるこの画が一番、この本を物語っているように思いました。流石イラストレーター!文章もいつも素敵ですが、挿絵一発で言いたいことを伝える。結局私が書いていたこともこういうことなんだと思います。一休さんは時代も超えていつも私たちのとなりにいるんですよね。

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