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結末その先にあったもの-進撃の巨人完結す

発酵の記録

 

遂に完結

ついに進撃の巨人最終巻が発売をされました。読み終えた今、思ったことを書こうと思います。ネタバレも含むので気になる方はご遠慮をください。ストーリーの結末を話すというよりとても印象に残った部分についてになります。

とらわれたアルミン

エレンの地ならしを止めるためになんとか奔走するアルミン達、そんな中アルミンは始祖ユミルに取り込まれてしまいます。意識がないアルミン、しかしそれは死ではなく、また夢でもない現実、道の中だと気づきます。動き出したアルミン、そこにジークの姿を発見するのです。

ジークとの対話

ジークはアルミンに、人つまり生命の根本的な性質、根源の理由を語りだします。生命が、私たちの生きる目的。それは「増える」ということです。自然はあるがままです。そこには増えようという本能的欲求はありません。増えることの対極にあるのは死です。死は増えるという目的に反すること。それに反することの罰則が恐怖です。私たちは死の恐怖の苦しみから逃れようとします。ジークは言います。そもそも種を存続させることがそんなに重要なのか?そこに意味はあるのか?それがあるからこそ私たちは恐怖に支配され死を逃れようと争い憎しみあう。

アルミンは納得をしません。アルミンには仲間がいてその仲間は今もその恐怖と戦っている。自分だけ戦わないわけにはいかない。

この言葉に対するジークの言葉がとても深い。

なぜ負けちゃダメなんだ? 生きているのは苦でしかなく、そのゲームから降りる瞬間は案外楽かもしれない。人生に意味があるのか?ただ増えるためだけに踊らされているにすぎないのに。

何気ない日常にこそ

これを聞いたアルミンはエレンとミカサと三人でかけっこをしていた時の昔話をします。そのかけっこは何気ないいつもの光景でした。そこになんの意味はなくただ気持ちよかった そんな思いででした。なんでもない一瞬。そこになんの意味もない。しかしただ心地よい それが人生の目的もいいのかもしれない。その話を聞いてジークはクサヴァーさんといくどとなく続けたキャッチボールを思い出します。そうか、おれはあれだけで良かったんだと。

カミュにシーシュポスの神話という話があります。神に罰をうけた男が山頂まで大きな岩を運びます。しかし山頂まで運び終わるとその岩は転がりおちまた運ぶそれを永遠と繰り返すという話です。人生はまさにそうで意味があるかどうかもわからないことを幾度となくくり返しているにすぎないとも言えます。しかし本当は岩をはこぶという結果が重要なのではなくて運んでいるという過程が大切のように思えます。

ニーチェに意味を問うな、ただ踊れ という言葉があります。人生に意味を問うこと自体ナンセンスなのかもしれません。私たちは意味を持って生まれてきたのではありません。あるように見えてもそれはただの後付けに過ぎない。しかしながら親の愛の過程があり生まれてきた、それだけで十分なような気がします。(※残念ながら今は全てが全てそうとは言えない時代でもあります)もしそれがなくとも同じような境遇の人を支えることが意味となることもあるでしょう。その一瞬を全力で生きよという禅のメッセージにも通じます。

歴史は繰り返す

私たちは遠い昔から今まで同じことを繰り返してきました。過ちだと気づきながらも本能にあらがえない。この現状をどのように終結させるのか、これが進撃の巨人のテーマでもあり、多くの作品がこのテーマを扱っています。エヴァンゲリオンなどその最たるものでしょう。人類補完計画、これが本当の人類の幸せなのかどうか。

最終的に自身で判断し決断をしたミカサ、アルミン、そしてエレンは文字通り、自由に(自らによる)なれたのかもしれません。そこに多くの読者は共感し涙をしたように思います。

最終巻でラストが加筆をされています。この部分は是非重要な部分なので是非こちらを。

作者には長い間、お疲れさまでしたと拍手を送りたいです。ありがとうございました。

参考図書

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