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疑うことこそ正常

発酵の記録

この冬の時期に毎年、境内の木の手入れや庭の手入れ建物の修繕を行います。毎年、少しずつ自身の経験や見識が増すことで見えてくる景色が変わります。そして何より毎年気づきがあることに喜びを感じます。

お寺の最適な状態を考える。見た目の美しさ、またお寺のありかた。いまだ答えは出ない。正解はないのかもしれない。それでもより良い状態を夢想してそれを追求する。

今回、お寺の修繕を懇意にしている工務店さんに頼みました。木材を使用した住宅建築のプロの方ではありますが寺社建築を専門にやっておられるわけではありません。ご本人たちは本当に私たちで大丈夫ですかと言われます。しかし私は何の問題もないと思っています。この方たちが優れているところは どうしたらいいかという問題を一緒に考えることが出来るところです。そして果たしてこれが正解かどうか 自分の感性と経験を総動員して考え、そして先人たちと死ぬ気で対話をしようとしているところです。確かに経験豊富な数寄屋大工さん社寺建築のプロの方はおられます。しかし、一緒に良いものをつくっていこうという価値観と使命感を共有出来る人、またセオリーに縛られることなく自身の感性を信じ、今ある最善を尽くせる人はなかなかいません。えてして知識や経験が創作を邪魔することもあります。

技術は目的があって初めて意味を持ちます。技術の為の技術は欺瞞でしかありません。

この道は合っているのか、正解か不正解か?それよりも正解にしていこうという気概がなにより私は大切だと考えています。今のお寺のイメージ、日本での仏教のイメージは少し前のイメージを引っ張っているにすぎません。本当にお釈迦様が感じた世界はどうだったのか、答えはわかりませんがそこを悩むことこそが仏教徒として大切にしたいと思っています。

 

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