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同情はなぜいけないのか?!ニーチェをよむ

アウトプット 紹介

おまえは誰を劣悪と呼ぶか?-いつも羞恥を与えようとする者を
おまえにとって何が最も人間的であるか?-誰にも羞恥を与えないこと。
達成された自由の印は何か?-もはやおのれ自身に対して羞恥を覚えないこと。

ニーチェは同情こそ敵であるとします、同情の何が彼をそれほどまでにいらだたせるのでしょうか?

最も深く、最も個人的に苦悩しているとき、その内容は他人にはほとんど知られず伺い知れないものである。そのようなとき、人は最も親しいものにさえ隠された存在である(中略)だが、苦悩する者と知られたときには、苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる。他人の苦悩から、その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ、同情という感情の本質に属することだ。恩恵を施す者は敵以上に、その人の価値や石を傷つけるものなのだ。

これこそがニーチェが同情を忌避する理由です。

実は敵の方がよっぽどましであって、敵は相対立しているゆえに お互い 固有性を維持しています。しかしながら同情は 相手の勝手な独善によって 無遠慮に こちらの内面に侵入し、無理解という理解という勝手な解釈で ずたずたにしてしまうのです。これは無自覚の暴力とも言えます。しかも一番質が悪いのは本人は善いことをしたと思っていることです。

私にもこんな経験があります。サラリーマン時代、赴任した部署の上司となんとも折り合いが悪く、ことあるごとに嫌味を言われました。上司と部下という関係上、表立って文句を言ったり反抗することはありませんでした。実際に、私が未熟で至らない点も多かったでしょう。

ただ、個人的なことの中傷はさすがに許されずそれに関しては反論をしたことはありました。

ある時
それを見て同じ上司の部下であり、私の先輩にあたる人が 自身のことのように憤っていました。
そこまではよかったのですが、周りの人たちに 私が上司にいじめられていると言い出したのです。

いやいや、ちょっと待ってくれと。私は思いました。

上司と部下の関係上、表立って反論することもないし、口論もしないけれども いじめられているとは違います。勝手に 私をいじめられている という枠組みの 中に入れないでほしいと思いました。私の中では上司部下の関係ではありますが、同じ立場で違う主張をしている いわゆる敵対関係であって いじめ いじめられている という関係性ではありません。

純粋な敵対関係は望ましい。強者と弱者の関係ではありません。

固有性をどのようにして維持するか、そこに人間の尊厳があるように思います。

 

 

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