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南山城の桜を愛でる

発酵の記録

南山城のさくら

三寒四温、暑さ寒さも彼岸まで。春が近づいてきています。コロナ禍で皆で集まってお花見というのは今年も難しいかもしれません。しかし桜は私たちの事情など関係なく花を咲かせます。皮肉なことに昨年の桜はとても奇麗でした。集まってお花見は出来なくても春を感じることは出来ます。三密を避けながらあなただけのお花見を楽しみましょう。南山城の桜名所のご案内です。

背割りのさくら

京都には大きな三つの川があります。桂川、宇治川、木津川のこの三川が合流し一つの大きな川、淀川となり大阪湾へと流れていきます。この合流地点が八幡にあり三川合流の地として知られています。背割堤は宇治川と木津川の合流部の間、1.4kmにわたり二つの川を区切るように設置されこの二つの川がスムーズかつ安全に合流させる役割を果たしている。淀川河川公園の景観保全地区に指定され、ソメイヨシノが約250本植えられ、毎年4月には花見客でにぎわっています。

玉川のさくら

「平成の名水百選」に選ばれた玉川の両堤は、約500本のソメイヨシノが桜のトンネルをつくる。また、古くから多くの和歌や絵画に登場する玉川の山吹も、川堤を黄金色に染める。近くにはシダレザクラで知られる地蔵禅院や史跡が数多く点在し、桜見物を楽しめる。

地蔵院のさくら

玉津岡神社の南隣、井手の里を一望できる高台に建っています。絢らんな様を誇る「しだれ桜」は京都府の天然記念物に指定されており、京都・円山公園の「しだれ桜」の兄弟木にあたります。

関西本線笠木駅のさくら

日本さくら名所100選に選ばれている色鮮やかな桜
木津川河川敷やJR笠置駅周辺には美しいソメイヨシノが咲き誇ります。

童仙房ARABONのさくら

最期にご紹介するのは南山城村、童仙房 ARABONさんのさくらです。
童仙房について少し引用紹介

地名の由来
6世紀の終わりごろ、奈良に平城京ができるより100年あまりも前のこと。飛鳥の地に日本で初めての本格的な寺院ができました。現在の元興寺(奈良市)の前身で、法興寺といい、現在は飛鳥寺とよばれています。

その落慶式のおり、現在の井手町あたりに住む人たちも参詣し、その場で仏法伝受を受け、僧となりました。その1人が、自分もいつか立派な寺を建てたいものだと願い、それにふさわしい地を訪ね歩きました。

現在の南山城村大河原へやってきて、宿に泊まりました。すると、北西の方向に金色の光が見えるではありませんか。夜が明け、北西の高台へ登ると、天から紫雲たなびき美しい童子が現れ、「あなたは、徳の高い僧です。私は帝釈天の使いです。ここに寺院をお建てなさい」と告げるやいなや、消えてしまいました。

これはありがたいお導きだと、この地に大きなお寺を建て、多くの僧が集まり、お堂が1000ほども作られ、「堂千房」転じて「土千房」と呼ばれ、栄えました。

200年の時がうつり、世は平安京となりました。都のお公卿さん、藤原是公がたびたび土千房を訪れ、地元の早瀬女という女との間に男の子をもうけました。都では、無実の罪で処刑された早良親王をおとしいれたのが、藤原是公たちだと噂され、早良親王の祟りを怖れていましたが、その子がここにいる、ということで、村の人たちは怖れおののき、承和10(843)年12月7日朝に村人たちが集まって、土千房へ火を放ち、大伽藍坊舎とも、ことごとく焼き払いました。

明治の開拓
明治に入り、廃藩置県後、童仙房は京都府に組み込まれました。

明治2(1869)年、京都府は、童仙房の開拓を府の官営事業として行うことを決めました。官吏・市川義方を開拓責任者とし、労働者を雇用して、道路をつくり、荒れ地を開墾し、住居(三軒長屋)をつくりました。まったくの未墾の地に入植させたのではなく、ある程度まで住居や農地を用意してから入植者を募りました。

明治4(1871)年6月、開拓が完成し、162戸、560人が居住したと報告されました。これをもって、童仙房村が成立しました。

明治5(1872)年には、京都府支庁が童仙房へ移されましたが、交通の便の悪さが支障となり、7年後には童仙房支庁が廃止されました。この間、役所の他、警察署や郵便局も童仙房に置かれ、にぎわいを見せました。童仙房支庁跡は民家となっていますが、その前に「役所池」があり、往時のなごりをとどめています。

ARABON

「ARABON」は、童仙房の廃校になった旧野殿童仙房小学校の
プールサイドにある小屋を改装したSHOPです。陶芸家清水善行さんの作品を常設展示(販売も)されています。

ARABONさんのさくらです

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